僕の呪文も効かなかった

少し早すぎた夕ご飯の片付けも終えて、音のない静かな部屋でじっとしていた、何かが腑に落ちなかったから、ジャージのポケットに部屋の鍵と千円札を入れて外に出た。あんまりおいしくないな、と思っていた黒いゼロカロリーコーラが、美味しくなったらしいから買って飲んでみたけど、そういえばこの間までおいしいなと思っていた赤いコーラの味を、もう既にあまり思い出せなかった。

8月と9月の狭間、ずっと胸騒ぎが止まらなかった。何か嫌なことや、すごく嬉しいことがあったわけでもなかったのに、ただなんとなく心が揺れていた。例えるなら夕方の、風に吹かれる草はらの波のようなかんじ、絶え間無く、脈絡もない。なかなか寝付けないから枕元のカーテンを少し開けて、ベランダの手すりをすべり落ちて行く雨が、隣のマンションや街灯から射すあかりに照らされて光るのを、眺めたりしていた。

夏の終わりだからなのだろうか。秋が始まるからだろうか。特に終盤根を詰めた夏期講習が、想像以上にあっさり終わってしまったからかもしれなかった。べつに予期できなかったわけじゃないし、中身がなかったとかそういう質の問題でもなくって、例えば夏の子供達が、なつやすみを永遠に感じてしまうように、なんとなく心のどこかで、この日々がずっと続いて行くんじゃないかと、そう思っていた。夏という季節には、そういう手品のようなことを、簡単にやってのけるような魔力がある気がした。

コーラを買ってコンビニから部屋へ戻るのに、いつもの曲がり角を曲がらずまっすぐすすんでそのまま夜の町を少しうろついた。住宅が建ち並ぶ景色にはなんの変哲もなく、濡れた路面で街灯がぬらぬらひかっていた。雨上がりにビーチサンダルで外を歩くと、指先が汚れて少し寒いなと思った。大きな蛾が鱗粉を撒き散らしながら、灯りの周りを飛んでいた。耳をすませば至る所で、秋の虫がないていた。きっとこのまま秋がきて、わたしはビーチサンダルを脱いでスニーカーに履き替え、空は次第に高くなり、夏は忽然と姿を消すんだろう。時が流れるということは、自分が生きている以上信じられる確実な真理のひとつで、避けられないし変えられない、しかしあらゆるものを変えるあるいは変えてしまう、ひとつの偉大な魔法のようだなと、考えたりした。

田舎の生活

スピッツの、オーロラになれなかった人のために、は、学生のころ買ったけどなぜか聞いてなかった唯一のアルバムで、でも先日、その存在を思い出す機会があって、だから聞いてます。初期のスピッツを、新たに聞けるよろこびです。

ここ2日くらい精神の調子が悪く、ネットで診断をしては最悪な気分になっています。原因を指折り数えても、そんなに対した質量じゃない気がするのに、こんなに沈んでいる自分に嫌気が差す。いつでも心にナイフを隠し持って、隙あらばひ弱な自分に突き刺したい。もっと強くなりたい。誇らしく生きたい。こう思うことはもしかしたら、ちょっと違うかもしれないんだけど、今は、そんな風に思うしかないんです。

スピッツの田舎の生活を聞いています。みなさん田舎の生活がどんな風だか知っていますか?いいところもわるいところもあります。何事もそうであるのと同じように。

わたしはいつまでも無知です。わたしだけじゃない、きっとみんな、無知です。視野をいっぱいに広げても、たくさんの情報を手に入れても、世界の全てを知ることはできない、できない、と思う限りは、世界はどこまでも広くて遠くて、あたたかいままです。それでも、知りたいと思う心を養って、考え抜いて、くたくたでも自分なりのしあわせを追いかけることが、生きるってことかなあ、そしたら、それらすべてや心の目を、閉じることが、死ぬってことなのかもしれないな。


夏だけが使う魔法で

久しぶりに、はれやかでさわやかでたのしくって、思わず笑みがこぼれるような、そんな気分になっています。何もかもすばらしく、あかるく、愛しくおもえるような、これがきっとつまり1つの、幸福というものなのかもしれない。

学校を2日間休む代わりに得たわずかな夏休みで、川崎にある岡本太郎美術館に行くことにしました。小5の時母と2人で行って以来で、時のながれを実感してなんだか不思議な気持ちになった、当時私はぬいぐるみを抱えて街を歩いていたし、母と片時も手を離さなかった、一人で電車に乗ることも、ままならなかったのに。
の中で岡本太郎は確立された位置にあって、それは今も昔も変わりません。多分はっきり、芸術と意識して、見たり感じたりしたのは岡本太郎がはじめてだったし、子供心に、すごいなあって思ったのを覚えてる。でもこうして美術の道を志て、いろいろな技術と意味と精神を知って、複雑な塩梅のうえになりたつうつくしさを知ったいま、岡本太郎の作品を見て感じるものごとは当時の何倍も多くて、何度も作品の前で泣いてしまいそうになった。
岡本太郎の作品について感じたことや考えたことをつらつら綴ろうと思っていたんだけど、今の私が文章にしても、どうにも陳腐で軽い感じがしたからやめました。いつかまた、自分の中で、誰かに伝えることができるくらいに考えがまとまったら、きっとここに書こうと思います。
目的地まで電車を乗り継いでいく道中、窓からの景色にどんどんみどりいろが増えていくのをながめて、こころのこわばりがほどけていくように感じました。懐かしさというか、安心感というか、日ごろ疎ましくおもうあれこれから解放されて、すごくゆっくり息ができた。美術館自体も生田緑地という緑地のなかにあるので、歩く道のりでは人とすれ違うことさえなかったんだけど、わたしにとってはそれが"普通"で、そして"楽"なのかな、って思ったりした。東京へ出ればいずれは都会に染まるなんて、友達にも言われたしわたしもそんな気がしていたけど、結局根っこは変わらないものなんだなって。
ちょっと離れることで、ようやくよく見えてくるものが、世の中にはたくさんあるんだと思います。自然から離れることで、自分がどれだけ自然を好きだったかが、わかった。そうなると日々の中にも、近すぎて気付けていない大切なものがたくさんあるような気がしてきて、なんだか落ち着かない気持ちになってくる。でもきっと気付いたとて気づかなかったとて、いま、大切なものたちが大切なものであることに、変わりはないような気もしています。
夜になっても蝉のこえが頭の奥で鳴り止まないのが、まるで夏の魔法みたいです。美術館を出て、ひぐらしやみんみんぜみの声を一身に浴びながら、緑地内を歩き回りました。木が生い茂っているから日陰ではあるけれど蒸し暑く、じっとり汗をかいたけれど、愉快な気持ちになった。額にあたるそよ風が心地よくて、暑いけどすごくしあわせな気持ちでした。また秋になったらきっとここに来よう、今度はスニーカーを履いて行こう。きっと森中甘い落ち葉のにおいで満たされているし、きっとわたしはそれをとっても好きだろうから。
 

深く潜ってたのに

近所の薬局で買った安っぽいけどかわいいみずいろで、足の爪を塗り直した、今年の夏は3回目で、きっとこれが最後になると思います。今日の午後洋服を買いに出かけたんだけど、もう秋冬物が並んでた。くすんだ色のセーターやダウンのもこもこを見て、いろんなことと、匂いを思い出しました。日常の色々を見るたびに、今までの何かを思い出す、私にはそういう癖があるんです、記憶を紐解いて苦しくなって、でもちょっとあったかくて、遠い目になっちゃう、その瞬間がとてもすき。
今年の夏は季節感を味わうようなイベントや日常がひとつもなくて(強いて言うならスイカと蚊取り線香かな)、その代わり日々否が応でも自分と向き合ってる。嫌じゃないんだけど、すごくきつい。だからこれから秋や冬が来るのを、すごく待ち遠しくいます。きっと秋が来たからって何かが変わるわけじゃないんだけど、このきつい日々を早く乗り越えて思い出にしてしまいたいのかもしれない、思い出にしてしまえば、それさえ大切なひとつの自分の引き出しになるから。
でも普通の楽しみな気持ちとして、秋はすきです、秋には特別な匂いと記憶がたくさんある、どれもきらきらしたうす紫の水晶みたいで、ひとつぶひとつぶ手にとってながめて遠くにこころを遣る作業が、今からとても楽しみです。
こんな風に記憶を愛でながら生きていてさえも、自分の周りでは日々新しいことがめまぐるしく起こっていて、毎日が新たな記憶として、脳にインプットされていく。それもすごいことだな、いつかおばあちゃんになるのが楽しみなのは、そういう日々の結晶を、籐椅子に腰掛けてゆっくり眺めるのが楽しみだからです。いつかその日が来るまでに、たくさんの引き出しにたくさんの結晶を、あつめられたら(その過程も含めて)それだけできっと、素敵な人生になるんだろうな。
ブログを書くのがはじめてで、要領がよくわからないんだけど、なんともない日記みたいな感じで、やっていこうかな、って今思いました。