夏だけが使う魔法で

久しぶりに、はれやかでさわやかでたのしくって、思わず笑みがこぼれるような、そんな気分になっています。何もかもすばらしく、あかるく、愛しくおもえるような、これがきっとつまり1つの、幸福というものなのかもしれない。

学校を2日間休む代わりに得たわずかな夏休みで、川崎にある岡本太郎美術館に行くことにしました。小5の時母と2人で行って以来で、時のながれを実感してなんだか不思議な気持ちになった、当時私はぬいぐるみを抱えて街を歩いていたし、母と片時も手を離さなかった、一人で電車に乗ることも、ままならなかったのに。
の中で岡本太郎は確立された位置にあって、それは今も昔も変わりません。多分はっきり、芸術と意識して、見たり感じたりしたのは岡本太郎がはじめてだったし、子供心に、すごいなあって思ったのを覚えてる。でもこうして美術の道を志て、いろいろな技術と意味と精神を知って、複雑な塩梅のうえになりたつうつくしさを知ったいま、岡本太郎の作品を見て感じるものごとは当時の何倍も多くて、何度も作品の前で泣いてしまいそうになった。
岡本太郎の作品について感じたことや考えたことをつらつら綴ろうと思っていたんだけど、今の私が文章にしても、どうにも陳腐で軽い感じがしたからやめました。いつかまた、自分の中で、誰かに伝えることができるくらいに考えがまとまったら、きっとここに書こうと思います。
目的地まで電車を乗り継いでいく道中、窓からの景色にどんどんみどりいろが増えていくのをながめて、こころのこわばりがほどけていくように感じました。懐かしさというか、安心感というか、日ごろ疎ましくおもうあれこれから解放されて、すごくゆっくり息ができた。美術館自体も生田緑地という緑地のなかにあるので、歩く道のりでは人とすれ違うことさえなかったんだけど、わたしにとってはそれが"普通"で、そして"楽"なのかな、って思ったりした。東京へ出ればいずれは都会に染まるなんて、友達にも言われたしわたしもそんな気がしていたけど、結局根っこは変わらないものなんだなって。
ちょっと離れることで、ようやくよく見えてくるものが、世の中にはたくさんあるんだと思います。自然から離れることで、自分がどれだけ自然を好きだったかが、わかった。そうなると日々の中にも、近すぎて気付けていない大切なものがたくさんあるような気がしてきて、なんだか落ち着かない気持ちになってくる。でもきっと気付いたとて気づかなかったとて、いま、大切なものたちが大切なものであることに、変わりはないような気もしています。
夜になっても蝉のこえが頭の奥で鳴り止まないのが、まるで夏の魔法みたいです。美術館を出て、ひぐらしやみんみんぜみの声を一身に浴びながら、緑地内を歩き回りました。木が生い茂っているから日陰ではあるけれど蒸し暑く、じっとり汗をかいたけれど、愉快な気持ちになった。額にあたるそよ風が心地よくて、暑いけどすごくしあわせな気持ちでした。また秋になったらきっとここに来よう、今度はスニーカーを履いて行こう。きっと森中甘い落ち葉のにおいで満たされているし、きっとわたしはそれをとっても好きだろうから。